こんばんは!かるぅです。
木曜日はジムデイ!
いつも通り、筋トレとランニングをしてきました。
しかし、少しだけいつもと変えてるとこがあります。
それは、ランニングをインターバル形式にしたことです。
インターバルとは、簡単に言えば負荷をかけて、少しの休憩(インターバル)をしていくものです。
マスクをしながら走るので、息を整える時間があるのは凄くいい。
負荷はかなりかけてます(笑)
午後は、まず散歩の時間。
塾の講師仲間の家の近くまで歩いていきました。
遠くにその子の姿が見えた気がした・・・
今日の塾で聞いてみます(笑)
一瞬だけ大粒の雨が降ってきたので焦りましたが、すぐに止んでくれたのでよかったです。
以前の記事でもお話しした通り、生粋の雨男なんです、、、
梅雨の時期に誕生日だからですかね(笑)
今日は日本の政治制度について、2時間くらい調べてまとめていました。
ノートでは2頁分になりました。
ずっと書いていたので、腕が疲れた・・・
筋トレしてチャーハン作ってたくさん文字書いて、、、
腕だけがすごい疲れています。
今も、誤字が多くなっているし打つのも遅い。
塾平気かな・・・(笑)
さて、今日は朝にも紹介した「永禄の変」からお話しします。
永禄の変とは、西暦1565年に三好三人衆らによって室町幕府13代将軍足利義輝が殺害された事件です。
この事件の動機や目的には事件前の三好家と将軍らの関わりが問題となります。
詳しく話すなら、享禄・天文の乱(1531年~1532年)の話から始めたいのですが、日記が中心なのでさわりだけで・・・
簡単に言えば、将軍らと三好家は武力衝突を繰り返していたことが背景にあります。
三好家の人物の命が狙われる事件もたびたび起こりました。
一時和解はしましたが、将軍側は三好氏らの孤立化を図っていたとも言われています。
また、面白いことに殺害は当初の目的ではなかったとも言われてきました。
元々は「御所巻」という、将軍を包囲して失脚を強要することが目的で、あまりにも強固な態度から衝突し殺害に至ったという説もあります。
実は、このことから三好側の真意は確定できず、知る人ぞ知る日本史の謎とも言えるでしょう。
ちなみに、三好三人衆が成立したのは事件の後です。
事件の指導者である三好義継、三好長逸、三好宗渭、岩成友通、松永久通の五人の内、三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3人が台頭しました。
これが三好三人衆です。
岩成は三好氏の家臣なので、三好三人衆と呼びます。
3年後には勢力は衰え、その後活動は途絶えています。
この事件があったのは二条御所(二条城)です。
僕も修学旅行で行きました。
この先、二条城に訪れることがあれば、この事件を思い出してみて下さい!
また明日!