こんばんは!かるぅです。
昨日は2日連続で雑学をお休みしてしまいすみません・・・
夕方から出る用事があったので、しょうがなくです。
ありがたいことに忙しいので、不定期で短くなるかもしれませんが、日記としてやっているのでご了承下さい・・・
書けるときはしっかりと!
ちなみに今日は、タイトルにある通りです。
もちろん「日記にしては」びっしり書きました(笑)
今日は、久しぶりに母校へ電話しました。
僕が卒業してから教員の方もかなり変わっているので、誰がでるのかドキドキしました(笑)
緊急事態宣言が明けたので、前々から予定していた訪問をしてきます。
なんだか緊張しますね
落ち着いて行きます!
今日は空気が暑いですね。
照りつける太陽がない分、すこし過ごしやすい気もします。
もう少し涼しいくらいが僕は好きですが・・・
みなさんはどんな天気が好きですか??コメントお待ちしております~
さて、昨日もできなかった学びの時間です。
今日は予告通り、「本能寺の変」について話します。
例によって、詳しく説明するのはかるスタディのほうになりますので、簡単で恐縮です。
まず、「本能寺の変」とは西暦1582年に起きた明智光秀による謀反・襲撃事件になります。
信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟り自害したといいます。
過去の背景についてはかるスタディでお話ししますので、討ち入りの経緯についてだけ話します。
光秀は前日の酉の刻(午後6時)に斎藤利三に命じて1万3千の手勢を揃えました。
翌日未明、桂川に到着し戦闘準備を始めました。
光秀はこのとき相手が誰かを知らせておらず、「敵は本能寺にあり」という慣用句も相手を知らずに困惑している兵に対して「我が敵は本能寺に在り」と述べたことによるものです。
桂川を越えた頃夜が明け、分進して目的地に急ぎました。
そして曙(午前4時頃)、明智軍は本能寺を完全に包囲し終えたのです。
最初は下々の喧嘩だと思っていた信長も、鉄砲を撃ち込まれて「さては謀反だな、誰の仕業か」と尋ね、明智軍だと分かると「やむをえぬ」と言ったそうです。
これは、明智光秀相手では脱出は不可能だと悟ったものと解釈されています。
信長は弓や槍を持って戦いましたが、傷を負うなどして内に退きました。
女房衆に避難を促した後、信長は殿中の奥に入り切腹しました。
この討ち入りが終わったのは辰の刻(午前8時頃)とされています。
なお、光秀が自ら討ち入ったことを裏付ける史料はなく、議論されてきました。
そして、日本史の謎として語られるのが、信長の首についてです。
戦後、明智軍は信長の死体を探しましたが、見つけることができませんでした。
いろいろ尋ねても行方が分からず・・・
そのため、信長が生きていることを否定できず、明智光秀の天下取りの誘いに乗らない同盟国が多くいました。
木造で大きな建物が焼け落ちた跡のため、当時では見つけるのが困難だったと考えることも出来ます。
しかし、火葬して遺灰を運び出した説や、信長の首を運んで供養したという説も在ります。
以上がさわりの内容になります。
光秀が信長を討った動機について書かれた史料はなく、光秀の重臣も短期間でほとんど討たれてしまったため、その動機は分からずじまいです。
そのため、途中にも述べましたが、「日本史の謎」や「永遠のミステリー」と言われているほどです。
今のところ通説は存在せず、史料がないことは誰でも考えられることです。
僕としては羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、自ら天下を取るために光秀に命じたのではないかと考えています。
その理由は二つあり、一つは山崎の戦いで秀吉が光秀を討っていることです。
これは光秀を討つことによる口封じの意味と、信長配下の同盟国を味方に付ける作戦だとも考えることが出来ます。
光秀は兵に相手を伝えておらず、それを支持したのも秀吉だと考えられます。
二つ目の理由は1598年に亡くなっていることです。
秀吉は最期、病死しています。
この頃秀吉は45歳ほどでした。
自身の病気を知り、早い段階で天下人になり地位になる必要があったのではないかと考えられます。
このように、僕でさえも考察ができるものです。
ぜひみなさんの意見も聞きたいです。
コメントお待ちしています1
また明日!