こんばんは!かるぅです。
今日は月曜日なので朝から授業でした。
残り少ないので、一回一回が大事な授業です。
最終課題やレポートもあるので、気を抜かないように頑張ります!
午後は、本当は銀行など行きたかったんですが、雷もなって雨も少し降ったので行きませんでした。
明日改めていくつもりです。
お給料の支給日の関係で、毎月中旬は大忙し。
梅雨なんかは出かけられないこともあるので、大変でした。
でももうすぐ梅雨が明けるそうですね。
昨日か一昨日くらいにもこの話した気がします(笑)
でも、本当に梅雨が明けて欲しいです。
今日は塾がお休みです。
今週は忙しいので、気持ちをつくって頑張ります。
さて、今日は朝活ができませんでした。
ここだけの話、いつも前日の昼間にツイートをつくって予約しているのですが、昨日は昨日のブログにもある通り、山梨に遊びに行ってしまったので時間がありませんでした。
そういえばずっと運転していたので疲れた(笑)
運転のお礼でハグくらいしてもらえばよかったな(笑)
・・・というわけで、今日は朝に紹介できなかった分、詳しく1つだけ今日の出来事を紹介します。
今回紹介するのは「嘉吉の乱」です。
「嘉吉の変」と習った人も多いかもしれませんが、同じものです。
これは1441年(嘉吉元年)に赤松満祐によって、室町幕府第6代将軍足利義教を殺害した事件です。
その後、赤松が幕府の討伐軍に敗れるまでを含めた騒乱を指すことが多いです。
赤松は播磨・備前・美作の守護を務めていました。
元々義教と赤松の関係は良好でしたが、1430年代後半から義教が赤松のことを疎ましく思うようになり、領土没収の噂が流れるなどしました。
1441年までに「大和永享の乱」や「結城合戦」などがあり、その結果により義教の敵は消えたことになっていました。
その「結城合戦」の祝勝の宴の最中に武装者が乱入し、義教は殺害されました。
幕府の対応は混乱していましたが、なんとか討伐軍を編成し西へ侵攻しました。
そして義教の殺害から約3ヶ月後、幕府軍による包囲・総攻撃により覚悟を決めた赤松は、弟らを脱出させ切腹しました。
細かい経過はかるスタディでお話しします。
この乱の後、山名持豊が守護職を与えられるなど守護大名の復権が見られました。
いかがでしょう。この「嘉吉の乱」は有名な乱だと、僕は思っているのですが・・・
さらに詳しく知りたい方はコメントもぜひ!
また、読者登録などもお待ちしています。
また明日!